この記事は2017年03月01日に「こまき無答塾」に書かれた記事「「ホスピタリティ」をベースに、1.小売り企業2社の社員問題点2つと、小牧市職員の問題点1つ(その1)」を Internet Archive から復元→アーカイブ化したものです(アーカイブ方針



本日のブログタイトルである「ホスピタリティをベースに、1.企業2社の社員の問題点2つと、小牧市職員の問題点1つ」は、極めて重要な事柄であると確信しております。
 長文になりそうですが、読者の皆さまには、是非最後までお読みいただくようお願い申し上げます。

「日本ホスピタリティ推進協会ホームページ」に 「ホスピタリティを通じて、人、組織の活性化及び地域環境の健全なる発展と人類の平和に寄与します」、掲載されていますし、
 以前読んだ、力石寛夫氏の著書「ホスピイタリティ サービビスの原点には次の事例が掲載されていましたので、皆様もご覧ください

ホスピタリティ(Hospitality)」は、一般に、「心からのおもてなし」、「サービスの基本となる心で、お客様を満足させる行為」、「お客様の立場になって考えること」などと解釈されています。
 今回は、小牧市政とも関係すると思われる、この「ホスピタリティ」について記述いたします。


(著書で紹介された手紙の内容) 
(前略)さて、私、先日貴社のある店舗でとても心に残る出来事にあい、思わずペンを執りました。
 9月30日の10時30分ごろ、私は国立がんセンターに入院中の15歳になる次男に、モスバーガーのテリヤキバーガーが食べたいと言われ、少し遠いのですが、WINS(ウインズ)銀座前にある店に買いに行きました。店には女性の店員が1人でした。
 朝のメニューにテリヤキバーガーがないので、私がちゅうちょしていると、彼女は私の欲しいものを聞き、「少々お時間を頂ければ、おつくりします」と言って、すぐに準備を始めました。そのとき初めて、入院中の子供に持っていくことを彼女に話しました。
 このような店にはマニュアルの対応とおざなりの笑顔しかないものと私には、彼女の対応がとても驚きでした。注文の品を受け取り店を出ようとする私に、彼女は、「お大事に」と声をかけてくれました。年がいもなく、少しジーンとしてしまいました。
 そして、さらに驚いたのは、病院に帰り袋を開けてみると、中に小さなメッセージカードが入っており「早く元気になってくださいね」と書いてありました。息子が発病してから1年半余り、つらいことばかりの中で、知人友人以外の方のこんな優しい気持ちに触れたのは初めてです。
 生来彼女の持っている性格も素晴らしいのでしょうが、それを日々の仕事の中で、表に出せるような接客の指導を貴社がされているとしたならば、大変素晴らしいことだと思います。場外馬券売り場の前という比較的荒々し場所で、若い女性が優しい気持を失わずに働いていることに本当に感動しました。
 お礼を言う機会がなかなかありませんので、会社あてにしました。ちなみに、メッセージカードに工藤さんという名前が書かれていました。
(著書の中の手紙文引用終り)
 
 私は、株式アマノの取締役(総務部長・商品部長・常務取締役(営業統括部長・経営推進室長)として、社員に「ホスピタリティの推進」について何度も何度も話をしてきましたが、工藤さん自身もこの本を読んで、「お客様が感動されてる様子を想像し、そのことに働くことの喜びを感じて毎日を過ごされておられるだろうと・・・」思わず泣いてしまいました。

 そして、その後就職した株式会社ビー・アンド・ディでも、光ケ小学校(玉置校長の頃)地域の学校コーディネータ森澤さんから連絡があり、生徒に対して「生き方ナビゲーション」という講義をパワーポイント資料を製作してお話しでも、「ホスピタリティ」関する資料を取り込んで生徒さん達に話しました。

★ホスピタリティのこころは、どのようにして身に着くのでしょうか?
 自分のことを書くのは少し、気が引けますが、「ホスピタリティの心」は訓練して身に着くものでなく、大阪にリッツカールトンホテルがオープンした当時、営業部長から、「ホスピタリティの心は、入社後の訓練では中々身に着けることはできい、そのため、リッツカールトンホテルでは世界レベルで、生まれもってホスピタリティの心を有しているかどうかを把握する適性検査を開発した」、「従ってリッツカールトンホテルグループでは、入社を希望する学生に学術検査や面接検査をする前に、ホスピタリティの心を有しているかどうかの適性検査をし、パスした人について、学術検査や面接検査を行い選考いている」とのお話を聞きました。
 
 私は、生まれ持ったホスピタリティの心が少しでも有しているのでいょうか・・・」
 私は、父親が薬剤師であったので、名古屋の中心部で小さな薬局を自営していました。母親は5人の子どもを大学まで進学させるために、ほぼ年中無休で父親と働き、私たち5人の子どもに目一杯の愛情を注ぎ込んで育ててくれました。
 そして、一度も「親の後を継ぐために薬剤師を目指せ」という話も1度も致しませんでいた。そして、「物事の善悪・正義感については、しっかり話してくれました」

 兄が薬学部へ行きませんでうたので、「心の中では、両親は私に薬学部へ行ってほしいのかな・・・」と勝手に想像していました。
 私は小さいころから、「工学部へ行って建築士になりたい。医学兵の大学へ行って医師・歯科医師になりたいと思っていましたので」、東海高校3年生の時には、進学路として「名古屋市立大学薬学部(1期校と同じ受験日)、岐阜県立薬科大学(今校名が変わったかも知れません)、三重県立医大(現在は国立三重大学です)、「富山大学薬学部(2期校)」の4校に受験手続をいたしました。

 名古屋市立大学薬学部と岐阜薬科大学の2校から合格通知が届いたのが、三重県立医大受験前でしたが、「過去問をみたら、私の英語力では、現役合格は無理だろう・・・」と判断し、名古屋市立大学薬学部に進学することにしました。
 当時の入学金は3万円、月謝は1,000円でしたので、経済的には、両親に孝行したと思います。しかも、4年間、家庭教師で月5,000程稼ぎましたし、通学も自転車で致しました。

 何年も経ってから気付いたのですが、「薬剤師免許を取得しておいて、転職など、そのごの人生にものすごく役立ったと」気付きました。

 そして、私のホスピタリティに大きく影響したのは武田薬品?における開業医の先生・奥様・家族でした。
 当時の武田薬品は、業界や医師から「天下の武田!」と呼ばれ、社員の給与も、外勤手当も、福利交際施設も優れ、接待交際費も十分にありました。

 ある日、江東区にある武田の医薬品を良く使用していたY内科を訪問した時、先生から「家内が堀さんに会いたいと言っていたよ」と伝えられましたので、2階のリビングに行きました。
 奥様からその時に言われたのは「堀さんは、他の医院の噂話を全くしないから、私のうちの話を他の医院ではしていないと思うから安心して付き合える」とのことでいた。
 別に意識して、他院の噂話をしなかったのではなく、もともとこれが私の生まれつきの性格・考えでです。
 プロパーやセールスによっては、他院の噂話や内情をペラペラ話する人も結構大勢いますが・・・。

 このようなこともあって、患者さんの多いY医院はますま東京都で武田薬品にとって超A級の医院になりました。
 そして週末の家族旅行に私も連れて行っていただき、箱根の富士屋ホテルに私の部屋を手配いただ何度もとまり、軽井沢の美味しい店で食事を一緒に食べました。
 時には,芦ノ湖と富士山がベットから望める「富士ビューホテル」にも宿泊させていただきました。(勿論、接待交際費は1円も使っていないY内科の家族旅行です)

 武田では、プロパーには「タクシー券の束と、ハイヤー券の束が渡されていましたので、荒川区の生活協同組合系の大きな診療所があり、薬局長の子どもさんが難病で定期的に受診されている話を伺いまいたので、タクシー券の束を渡し、「これを子供さんの通院に使ってください」と言ってお渡ししまいた。
 まあ、診療所の実績がその後どうなったか書くまでもありませんね。

 その他、ボーナスを貰うと、接待交際費ではなく私費で「ボーナスが出ましたので、ケーキを買いまいた。食べてください」とか、名古屋の実家に帰ると私費で買い、「名古屋の貝新のしぐれです」といって、普段可愛がっていただいている医師に配り食べてもらいまいた。

 神田に物凄く患者さんの多いS眼科があり担当していました。ある年末に取引先のディラーが、風景画の6枚綴りのカレンダーを各医師や奥様に配りました。
 神田にあるS眼科医院は大先生と若先生の2人で診察されていましたが、患者数が多く、武田薬品にとっても、アリナミンを相当量使用いただけるAのお得意様でした。
 カレンダーを配布したディラーのセールスから、「大先生が、6枚つづりのカレンダーのうち、1枚の風景画にたいそう興味を持たれている」との連絡がありました。

 その原画を探すため、カレンダーの印刷業者を頼りに必死に探したら見つけることができました。原画を交際費で購入し、突然訪問し、「先生、どうぞ・・・」とお持ちしたら、ビックリして大喜びされました。
 数年後、大先生はなくなられましたが、若先生から「湘南の自宅の葬儀には、取引プロパーの中で、堀さんだけ参列して下さい」との連絡があいました。

 当時、スヌピーが日本に入りましたが、スヌーピーの縫いぐるみは東京中を探しても入手できない状態でした。
 そうした中、Y内科の日本女子大の幼稚園に通園する下の女の子が、連日「スヌーピー、スヌーピー」と言っていたそうです。
 ところが、ところが、そのような時に、担当する上野松坂屋の診療所へ行ったとき、1階売場の柱の上の方に1ケ所だけスヌーピーの縫いぐるみがディスプレイしてありました。
 飛びあがるほど嬉しくて、「あのスヌーピー売ってください」と頼み込みました。私の必死の訴えが通じたのか、「少しホコリが・・・」と言われたかもしれませんが、幸運にも購入することが出来ました。

 直ぐにY医院のリビングをへ行き、下の女の子の前に立ち、後ろに隠したスヌーピーを、「はい、これと言って目の前に差し出しまいた」女の子は、飛び上がったり泣いて喜んでいまいた。
 それ以来、タクシーやハイヤーで家族で出かける時には、助手席に座った私の膝の上は、女の子2人が「私が座るの」、「いや、私が座るところよ」との取り合いが続きました。
 
★名古屋商工会議所主催の「ビジネストレンド研究会」
 15年余りで、武田を退社し、天野製薬グループの?アマノに入社しまいたが、オーナーに可愛がっていただき、トントンと、店長・副部長・取締役・常務になりまいた。そうした中で、名古屋商工会議所が企画する「ビジネストレンド研究会」に所属しました。
 (?)アマノはその中でも小さい方の会社で、名古屋を本拠とする大手企業35社位の社員の方が所属し、サントリー白州工場、東京のすかいらーく本部、開空前の関西国際空港の滑走を路歩いたり、、開園直後のユニバーサルスタジオ視察したり、オープン直後の金山のボストン美術館、広島のマツダ工場等の見学会が行われ、見学後は食事をしながらの視察先をテーマに懇親会がありまいた。
 例えばボストン美術館については、メンバーの中の海外勤務をされた方が複数おられ、本場のボストン美術館お金山のボストン美術館比を較して異論を述べられていまいた。(当時の私には理解できない点もありましたが・・・)

 私は、「アマノの店が、お客様に感謝されるだくでなく、お客様に感動され、お客様の感動されている様子に接客した社員が喜びを感じるために、毎日毎日、「?アマノの店が、全国でも接客評判店になる夢を抱き、いろいろ考え、1つ1つのサービスを社員に徹底するために、和製英語の名前をつけたりもしました。

 ?アマノの各店舗は、名古屋駅の地下街や、栄の地下街で、比較的多くのお客様に来店いただきました。
 名古屋駅のサンロード地下街入口にある店は、朝8時のオープンから9時までに1時間で500人ぐらいのお客様が出勤前にリポビタン等のドリクンク剤を飲まれる方で、オープンと同時に一杯になりなりました。

 ドリンクコーンーを担当する社員は、1人1人のお客様が毎日飲まれるドリンク剤の銘柄を記憶しておき、地下鉄等を降りてドリンクコーナに近づいてこられるお客さまを確認すると、ドリンク剤のキャップを開け「おはようございます」と挨拶して、キャップを開けドリンク剤を差し出し、飲み終えてコーナーを離れる時には、元気な声で「行ってらっしゃいませ」とお見送りしました。

 当時は、携帯やスマホのない時代でしたし、トイカなどなどもない時代でしたので、「両替お断り」のPOPが掲示されている店が多い中で、サンロード店では、両替だけに来られる方に、「快く笑顔で、両替に応じるようにいたしました。(スマイルエクスチェンジサービス)

 こうしたことを、全店で意識を持って実行していましたので、ある時にはビジネストレンド研究会の商工会議所の方から、「研究会の中でお客様満足についてミニ講演会の講師をして欲しい」との依頼がありました。メンバーの中には、デパートの社員の方も複数おられましたので、何かお尻がむずむずするような面持ちで話をさせていただきまいた。

 前述した、大阪のリッツカールトンホテルも、オープン直後にビジネス研究会のメンバーで訪問し、営業部長の話を聞いた時のものですが、帰社後、社長に話し、何と毎年行っている社内親睦旅行の宿泊ホテルとして、リッツカルトンホテルにいたし、「リッツカールトンホテル宿泊体験をいたしました。(2~3班に分けて・・・)

 私は、常務取締り役であった58歳の時に、若い社長と心のすれ違いがあり、?アマノ退社しましたので、その後の様子はわかりませんが、退社後に入社した?ビー・アンド・ディードラッグストアが、50数店舗、売り上げ230億円を上回っていますが、?アマノは退社当時の売上を大きく下回り、優秀な人材も退社したそうです・・・。B&Dの正木社長からは、「俺も薬剤師だが、堀さんは俺の気付かないことをいろいろ言ってくれる。本部の主な会議に参加し、どんどん厳しい意見を言って欲しい・・・」と指示されました。人生の最後に、このような優れたトップ(リーダ)の下で働けたことは、幸せです。
 きっと、天国で仲良く過ごしている父親も母親も喜んで暮れていることと思っています。

 やはり前置きが長くなりすぎましたので、本日は「「ホスピタリティをベースに、1.小売り企業2社の社員問題点2つと、小牧市職員の問題点1つ」のうち、(その1)として、最近経験した、マックスバリュー小牧駅西店の問題点を記述し、明日は、小牧市職員の問題点を中心に報告いたします。

2月21日(火)のマックスバリュー小牧駅西店・春日井坂下店・扶桑店・清州春日店4店舗の新聞折り込みチラシ

 私は、毎日のように夕食をつくりますので(ステロイドを火・水と2日間飲むようになってから、体力的にも精神的にも作らない日が増えていますが・・・」
 チラシ掲載品円の価格については、一般の主婦の方より詳しいとおもいますが、今回のチラシの目玉商品は、「創味のつゆ」598円(税込み645円です)

 「創味のつゆ」は、大量に使いませんが、麺類(そば・うどん・ひゃむぎ・そうめん)の冷たい時を食べる時に水で10倍に薄めれば、超簡単に付け汁が作れますんで、急いでいるときに便利です。勿論、他の料理のだし汁にも使いますので、1本程度は買い置きがあります。
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 確か、2月17に「ピーチバス」昼頃ラピオビルへ行きましたんで、マックスバリュウへ「創味」を主目的にいきました。
 主通路の肉のケース前の2ケ所のエンドには、大量の「創味」が陳列してありました。「えっ、価格は通常の798円(税込み861円だ・・・」

 レジの目にいた赤いジャンパーを着た男性スタッフの「店長ですか・・・」と聞いたら「違います」との返事。
 そこで、「お1人様2本限り598円(税込み645円)の「創味は、お昼の時間にもう売れ切れたのですか」と聞きと、真顔で「はい、そうです・・・との返事」。
 呆れて、「何故、あのように大量にエンド2ケ所に陳列し、「売れ切れましたの標示もしないで陳列しているんですか」と聞くと、「ああ、そうでしたね・・・」との返事。

 「私が良く行く、ナフコ桃花台店(桃花台の少し外にある食品スーパーです)という小さな食品スーパーでは、「お1人様〇〇限りの商品が売れきれた時には(夕方以降の場合が多いんですが)、必ず「申し訳ございません。チラシ商材は売れきれました」との標示がしてありますよ」と伝えまた。ホスピタリティどころか、「顧客不満を招く行為」ですね。
 企業全体の問題か、店の問題か、個人の問題か分かりませんが、胸糞の悪い1日でした。

この記事は2017年02月28日に「こまき無答塾」に書かれた記事「運転免許証の返納と、こまき巡回バス・ピーチばす・タクシー」を Internet Archive から復元→アーカイブ化したものです(アーカイブ方針



私が運転免許証を取得したのは、名古屋市立大学4年の夏休み(1965年・昭和40年)のことです。
 武田薬品工業?に就職が決まり、医家向け学術情報員(当時、業界では「プロパー」と呼ばれたころです。現在は「MR」と呼ばれているそうですが・・・)

 内定が決まると、会社から連絡があり「運転免許証をとってください。費用は会社で払います。」とのことでありましたので、現在も存在する名古屋市北区の庄内自動車学校に通って免許を取りました。)
 家に、車はありませんでいたので、翌昭和41年に武田に入社し3ケ近くの本社研修後に配属された東京営業所で、東京のど真ん中「中央区の開業医さん」を担当するために、日産のブルーバードを与えられた時のことでした。
 それまで、1度もハンドルを握ったことのない私が、日本橋・銀座・浜松町・築地などの開業医を訪問し、目白の独身寮まで車で帰るのですから、それはそれは、ヒア汗が出るような毎日でした。
 東京駅前の八重洲駐車場などに車を入れっぱなしにして、歩いて担当の開業医を回ったりしましたし、「良き時代で」路上駐車した近くの交番に、「直ぐ帰り明日から」と、車に積んでいたいたアリナミンのサンプルを渡したり・・・。

 そのような状況の中でも、事故を起こすことなく、2年目には、台東区や江東区を担当することになり、親しくなった開業医の奥さんから、「たまには若いこと、お昼ご飯を食べに行こうかな・・・」と言われ、雷門近くの天丼の美味しい「尾張屋」でごちそうになったもしまいた。
※会社の車にお得意様を載せることは禁止されていましたが・・・、「それでは仕事にならないよ…」との独断で、気を付けて気を付けて運転していまいた。

 また、江東区の開業医の奥様からは、「軽井沢の別荘へ行くから内の車運転してくれる・・・」と、言われ免許証を持っておられないご主人(医師)の代わり何度も何度も夏の軽井沢へ行きました。
 当時は、まだ売バスがない時で、軽井沢峠を通って東京から10時間ほど要して行ったとおもいます。

 東京営業所で7年間勤務した後、新潟市にある独身寮(大手企業の社宅もこのあたりに集中しており、日本海の近くの所です。

 月曜日に新潟出張所に出社し、まだ、高速道路はありませでしたが、長岡市の老舗旅館「福寿荘」に泊まり、長岡中央病院(厚生連)、柏崎市の刈羽郡病院(厚生連)、豪雪地帯の小出県立病院、六日町病、など越後湯沢までの病医院を担当しまいた。
 このころには、道路の雪の吹き溜まりに突っ込んで動けなくなったり、峠で凍結しスリップして動けなくなったので、トランクからチェンを出そうとしたら、鍵穴が凍結しており、必死の想いでライターで鍵穴を温めたりしたこともありました。
※当時の冬の車の標準装備は、「スノースパイクタイタにチェンを付けて走る」ということでした。

 新潟出張所に勤務してた31歳の時、東京営業所で同じフロアで働いていた1年後輩(高卒・26歳)の家内と、明治記念館で結婚式を挙げましたので、新潟での新婚生活は、「月曜日に家を出ると金曜日に家に帰る」という生活でした。
 12月1日に結婚し、翌年9月にはハワイ産の長女が生まれました。社宅は、日本海が一望でき佐渡や淡島が良く見えるマンションを会社が探してくれました。

 東京営業所に勤務していた昭和44年~46年の3年間、近藤さんという素晴らしいリーダーシップのある方で下で働きましたが、毎日、毎日が楽しくてしょうがなく、「俺たちは全国の武田のプロパーの中で一番仕事をしている・・・」と自負していました。

 その近藤さんが、昭和46年に新潟出張所長として異動されました(当時の武田では、新潟出張所長出世コースと言われていました)
 近藤さんが、会議等で東京へ来られた時にっは、「私も新潟で近藤さんの下で働きたい・・・」と、何度も何度も伝えました。

 念願かなって、新潟に転勤することができ、結婚式の仲人もしていただきましたし、桃花台の家にご夫婦で2~3回お泊りになったことことがあり、高山・白川郷・平湯・馬籠・妻籠・犬山城・明治村もご案内いたしましたし、現在も数年に一度東京で「近藤さんを囲む会」が開催されますので、お会いすることができます。

 3年間の新潟勤務の後、宇都宮出張所に転勤いなしましたが、先日のブログに娘の3歳ごろまでの写真をアップいたしましたが、自家用車を利用して、それはそれは楽しい日々をすごしました。

 今年6月の免許証更新にあたり、昨年9月車検の際にも随分悩みましたが、「以前から乗りたかったワーゲンのニュービートルも充分楽しんだ・・・、免許証を返上しよう・・・」と決断いたしました。
 本日(2月28日)付の返納ですが、車は、2月16日にフォルクスワーゲンの方に廃車手続きのため引き取っていただきましたので、勿論、それ以降は車の運転はしておりません。

 しかし、50年間の感覚が抜けず、昨日も家内に、「これ車に入れといて」と言ったら、「お父さん、何を言っているの車はみうないのよ」と言われて、「ああ、そうだった・・・」と反省する始末です。

 2月20日と27日が、がんセンター中央病院の受診日でしたので、家内は「お父さん、タクシーで行こうか」と言いましたが、」自宅からがんセンターまでは約7千5百円、往復で1万五千円か・・・」、「年間、血液相棒療法科U血液内科)と30回ほど通院することになるので、50万円近くなるか・・・」と考えると、やっぱり我が家には無理で、自宅➡春日井駅➡大曽根駅へ行、大曾根からタクシーでがんセンターまで行きことにしました。(1,800円~1,900円程で、タクシーの運転手さんによれば、「大損からタクシーでがんセンタへ行かれる人が多いですよ」とのことでした。

 車がないと、舟橋植木さんが経営する「賀名生」へも、アピタ小牧店を南の方へ行った「KAN」にも、桃花台から春日井駅方面へ行った「マリオット」や「スタバ」にも行けなくなりましが、これからは、「こまき巡回バス」「ピーチバス」「桃花台バス」、さらに、春日市の「コミュニティバス」を研究して道と思っています。
 いろいろ選択肢のある中で、「一番いいのは、中央道の高速バスを利用するのが1番かな、30分程で栄や名古屋駅に行けるし」と思うようになりました。
 そういえば、今日は犬山市役所に用があり、家から徒歩2分にあるピーチバスで、名鉄小牧原駅まで行き、犬山駅まで行きました。

 「大好きで、10年近く住民登録(年間パスポート会員)している明治村に行けるカナ・・・」と心配していましたが、中央道の桃花台バス停から行くことが出来ることを確認しましたので、「ホット」しています。
 また、お弁当を作ってブラブ園内を歩いたり、疲れているときは園内バスで移動したいと思っています。

この記事は2017年02月27日に「こまき無答塾」に書かれた記事「山下史守朗教祖様のありがたい説法とひれ伏す信者たち」を Internet Archive から復元→アーカイブ化したものです(アーカイブ方針



まだ完全ではありませんが、「こまき無答塾ブログ」が何ととか回復いたしました。

★本日(2月27日)、平成29年小牧市市議会定例会(3月議会)が開催し、市長の施政方針演説おこなわれました。

 施政方針演説と言っても、何とか教団の太めの教師さまの、有難い説法を聞くために、9月議会の開会日と全く同様に、教団世話役を長年務めている横田氏(女性)に引率された信者たちが、
72の傍聴席を埋め尽くし、ありがたい山下史守朗教祖様の説法に傍聴席から拍手し(傍聴規則違反)、説法が終ったら(施政方針演説が終わったら)、信者たちは一斉に引き上げたのです。

 皆さん、これは夢の世界でありません。日本国・愛知県小牧市の3月議会初日の光景です。小牧市民として恥ずかしい限りですね・・・。
 「山下市守朗の大馬鹿者が・・・」

★信者軍団に応援して欲しければ「誓約書」を出せ
 山下史守朗教祖が小牧市長に当選したのが平成23年2月6日に施行された市長選挙に初当選し、市長としての活動を開始したのが平成23年2月21日。 承認後初めての執行された平成23年10月の市議改選に際し、「信者軍団の応援(票が欲しければ)「下記の推薦依頼署名捺印して提出しろ」誓約書を出させたのです。

 皆さん、これは夢の世界でありません。日本国・愛知県小牧市で起きたことなのです。小牧市民として恥ずかしい限りですね・・・。
 「山下市守朗の大馬鹿者が・・・」
 

この記事は2017年02月22日に「こまき無答塾」に書かれた記事「小牧市報公開審査会・個人情報保護審査会とその結論について」を Internet Archive から復元→アーカイブ化したものです(アーカイブ方針



ブログ投稿ページの不調で、皆様に多大なご明確をかけておりましが、何とか本日の投稿することができるとことまで回復したかも知れません。
 本日は、以前から「肝」の部分だと判断していた部分を一括して投稿いたしますので、長文(うまく記述でき、投稿できた場合ですが・・・)

★小牧市報公開審査会・個人情報保護審会とは

現時点における「小牧市報公開審査会・個人情報保護審査会委員名」
 〇会長 萩原 聡央(名古屋経済大学教授)
 〇大宮隆志(一宮法律事務所)
 〇池田洋子(名古屋造形大学教授)
 〇鈴木 弘之(元小牧職員)
 〇丸山真由美(市民講座講師)
 10月18日(金)に審査会が開催され、出席し審査会委員質問したり、審査会委員の意見を聞きました。
 但し、鈴木委員は、笑顔で「良く調べましたね」と発言され、丸山委員は、「こまき無答塾ブログを読んでいます」と発言されました。
 審査会の結論に結びつく重要な質問をされたのは大宮弁護士で「堀さんが問題にしているのは開示された書面のうち1枚目は速水社長が作成したが、2枚目は山下市長によるねつ造(作文)ということですか」と田恒られました。
 私が、その件について審査会委員の前で説明しようとしたら、「私の聞いていることだけに答えてください」と言われ、再び同じ質問をされましたので、私も再び同じように答えました。

 この時、私は「何だ、この弁護士は、私の質問に全く答えないで、市民に対して上から目線の言葉で2回質問し・・・、と腹が立ちました」
 実は、帰宅した後に思い出したのですが、稲沢法律事務所の大宮弁護士からは、1年半余り前に自宅に配達証明付の封書を送られていたのでした。「あの時の、あの弁護士か・・・」と、怒りが増幅いたしました。(後述)

◆審査会開催前の事前打ち合わせ
 10月18日(金)に開催された審査会に出積するなえに、審査会事務局の総務課文書法規係職員の方々から、「堀さんの審査請求は異例だから(開示決定したが、本来は行政文書存在せずで不開示)、審査会から「審査会の審議対象外だ・・・」ということで門前払いをされるこましれませんね」と言われ、「私もそれを望んでおます」と答えました。
 
 しかし、11月8日に届いた審査結果の書面(7ページ)の第1.には「小牧市長が、「ラピオビルの3階閉鎖店テナントの対応について「及び「ラピオビルの経営方針について」のうち、印影を除いた部分を開示した決定は、妥当である。

 続いて、2には「審査請求人は、本件審査において、本件文書のうち枚目の「ラピオビルの経営方針について」は、第の2の理由のとおり「小牧都市開発株式会社がさくせいしたものではなく、実施機関が柵瀬したものである」と主張している。
 しかしながら、当審査会は、条例第16条の規定に基づく実施機関からの諮問に応じ、実指揮官が行う開示決定の妥当性について審査する機関であり、審査請求人の該当主張の是非について当審議会の判断するところでない。そもそも裁判所(最高裁判所平成18年4月20日判決)、横浜地方裁判所平成21年6月29日判決に照らせば、条例において、行政文書の記載内容の真実を実施機関が審査する定めたきていはない、・・・」

 ご覧いただいた通り、第1の結論と、大宮弁護士による第2の結論は完全に矛盾しています。何故、審議会は「審議会で審議する必要はない!」と、10月8日の審議会開催前に、私に「門前払い」であり、「審議会を開催しない」と連絡しなかったのか・・・」全く理解できない。

 私が、強く望んだことは、「生来物事の白黒をハッキリさせる立場であるが、ここまで来たからには、山下市長にも、速水社長にも気付付けない、曖昧な妥協策を低下することが何よりも大切だ。それが、しsゅクしている小牧市職員のt目であり、それが小牧市民の近未来の幸せに結びつく・・・」との強い想いがあったからであります。
 双方に気付付けないない解決策は、「最高裁の繁栄を示して、門前払いをⓈることしかありませ」
 残念ながら、不勉強な大宮弁護士は、審議会開催前に最高裁等の判例を把握していませんでしたので、審議会を開催してしまったのでs。

 さらに、第6付言で「審査請求人が行政文書の審議に疑念を持った理由の1つとして、文書番号が付されていないという行政文章の処理に重大な過誤があった。
 今後、実施機関はにおいては、小牧市文書取扱規定に則り、適正な文書処理に努められたい」と、荻原会長による文章が書いてあるが、何を間抜けたことを書いているのか・・・。
 私とは、全く関係ないことであり、何らかの機会に山下市長や小牧市職員に言うべきことではないのか・・・。
 
 私は、平成28年11月9日から6ケ月以内に山下市長を相手に裁判をする権利がある。勿論、争点は、「審議会開催の是非」ただ1つである。
 最高裁判例等に反し、審議会を開催いして始末たので、山下市長の勝ち目ゼロである。

この記事は2017年02月11日に「こまき無答塾」に書かれた記事「山下史守朗小牧市長の6年間の軌跡(その5)」を archive.today から復元→アーカイブ化したものです(アーカイブ方針



(その4)の続き

★平成23年10月2日に施行された小牧市議選挙に際し、「誓約書」の提出を求めて
 山下史守朗小牧市長は、就任後初めて執行される小牧市議会議員選挙に際し、「私のマニフェスト実現に協力すれば、選挙の際に応援してやる」との誓約書の提出を求めました。

 「選挙の際に応援してやるとは、父親の時代から築いてきた協力な後援会の票を割り振ってやる」という、あきれ果てた行為です。

 また、平成23年9月には、議会開催中であるにも関わらず、後援会のバス旅行に福井県へ同行していたことが明らかになり、新聞各紙で報道されました。
 
(その6)に続く

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